沼津市 多比 石丁場隧道群3




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前回探索した、地図上は隧道として表示されている石丁場跡は一体何だったのでしょうか?
手掛かりを求めて沼津明治史料館で 史料を漁った結果、ある程度の情報を得ることが出来ました。
以下に、あの石丁場跡隧道の調査結果を説明します。



答えは「沼津市史 史料編 近代2」にありました。
以下は昭和20年11月29日、占領軍による接収内容の目録より抜粋です。

第二海軍技術廠 沼津分廠施設目録(昭和20年11月29日)

一、本部(下香貫)
(略)

二、江ノ浦臨海実験所
(略)

三、淡島臨海実験所
(略)

四、多比地下壕
建物名称 様式 棟数 建家面積(延) 記事
工員宿舎 木造平屋建 一二〇平方米
烹炊室 木造平屋建 一〇〇平方米 未完成
第一号坑 地下壕
一八〇〇平方米
第二〃
一七〇〇平方米
第三〃
一三〇〇平方米
第四〃
一七〇平方米
第五〃
三二〇平方米
第六〃
四八〇平方米

五、下土狩事務所
(略)

六、大瀬崎臨海実験所
(略)

Tabi Work Shop


(中略)

多比の施設は全て地下壕であり、実験室・機械設置の疎開地であった。

沼津市史 史料編 近代2 より引用


というわけで、この石丁場跡隧道は戦時中、海軍の地下壕として使用され、 音響兵器の開発を行っていたようです。

ちなみに終戦後、他の施設と共に占領軍へ引き渡され、後に返還されています。
ただ内部にあった蛍光灯などを見ると、その後にもまた 何らかの目的で使用された形跡がありますが・・・そちらはわかりませんでした。


今回のレポートの石丁場跡隧道は、画像の(1)と(4)にあたります。
ただこの画像の地下壕の形状は適当に書かれたようで、正確なものではありません。




多比 石丁場隧道概略図
凡例

:石丁場跡の地下エリア
:通行用に掘削したと思われるエリア
:出入り口/屋根がないエリア
:???

上記の図は私が書いたもので、これも正確なものではなく概略図です。 (縮尺は適当ですし、実際は西側はもっと分岐が多く入り組んでいます)
(4)が東側入り口、通行用に掘削された通路で結ばれ、それ以西が(1)です。
資料による面積は、東側(4)が170平方m、西側(1)が1800平方mとなっています。こんなものでしょう。

そして資料によると、(1)エリアの北側に1700平方mもの広大な(2)エリアが広がっている筈ですが、 私の探索では発見できませんでした。
封鎖されていたか、分かり難い入り口だったのか、 それとも資料の形状が間違っており(1)の屋根が無いエリアの北側を(2)としていたのか。それは不明です。

また(1)と(4)は石丁場の特徴である長方形断面をしていましたが、 それを繋ぐ連絡通路(青通路)は切り出し目的ではなく通行目的として後に掘られていたことから、 海軍が使用するのに利便性を考えて掘ったものであると推測できます。

ちなみに位置関係から、資料の(5)が山田隧道(山さ行がねが様のレポートの 旧口野隧道・第一洞)、 (6)が同・第二洞と推測されます。これらも今回の石丁場跡隧道と同じく、 海軍により地下壕として使用されていたようです。

ちなみに山田隧道は現在、中ほどが水没しており、東側(伊豆の国市)まで抜けることが出来ません。
資料の(5)の形状を見ると、東に長く伸びるようには描かれていないため、 戦時中には既に水没しており通り抜け不可だったようです。



と、いうわけで。


(1)(4)は探索済み、(5)と(6)は正体判明済み、(2)は発見できず保留。
あとは、未発見の(3)を探すしかありません。
資料によると1300平方mとかなり広大らしい。


(3)は、このあたり。周囲に道はありませんが・・・

山中探索を決行!


地図上に道はありませんでしたが、それらしい進入路を発見。
しかし落ち葉の積もり具合から、この道も既に現役ではない模様。


間も無く石垣を発見。石垣は、人の手がしっかり入っていたという目印になります。
切り出された端材を乱積みしたような、かなり適当な積み方です。 深い苔に包まれており、時間の経過を感じさせます。


その先に進むには・・・笹藪を突っ切る必要があるようです。
ただの笹藪かもしれませんが、しかし足元には、時代を感じさせる大量のガラス瓶。
この近辺で、何かに使われていたのでしょうか? こんな山奥にまで徒歩で不法投棄に来るのも考え難い話です。


え、えーと・・・
この先に、光があると信じて!(ヤケ)




これは!?

いきなり発見したのは、ではなく、
平らな切り口、石を切り出した丁場の形跡。
左側は石を積んで補強してあります。
この奥に広大な(3)のエリアが・・・?


あれ、足元が・・・ない。えーと・・・


少し引いて撮影。
足元が穴に向かって急傾斜になっており、その底が・・・見えない。


穴の後方に回り込み、木を掴み身を乗り出して撮影。
ここで見えている底は、一番底ではありません。 しかし見えている範囲だけでも、入ったら脱出不能な高さ。


穴の左側から撮影。
一気に垂直に落ち込んでいるわけではなく、
入り口?→急傾斜→3m程の段差→階段状→
2m程の段差→3m程の段差

という段階を踏んでいました。 そして最下層から奥に、空間が広がっている模様でした。

色々考えました。が、無理です。ギブ。
これは下りられません。そして登れません。


この奥が(3)のエリアかもしれない。 もしそうなら、現役時代は梯子が設置されていたのでしょう。

一応、他にもある可能性を追い、山の奥へと進みます。


斜面を石垣で補強した平地がいくつかありました。
畑にしては狭すぎるし、山奥過ぎる。 何か建物があったと推測されますが、名残は何も見つからず。 周囲と変わらぬ太さの木が生えていることからも、 かなり長い時間が経過している事がわかります。
資料には、(3)のエリアの近くに工員宿舎があったと書かれていますし、 海軍関係施設があったのかもしれません。


石丁場の跡を、穴を探してうろうろ。あれ、空が明るい。
結局何も見つからないまま、山の尾根まで出てしまいました。


何か手掛かりは無いかと尾根筋まで探索しましたが、人工物は何も見つからず。 結局あの穴しか見つかりませんでした。
あれがきっと(3)の穴なのでしょう、ということで(3)の探索はこれで打ち切りました。





今回の探索時間:46分


さて、まだ実際に行っていないのは(5)の山田隧道と(6)です。
ついでなので、こちらにも行ってみることにします。

ちなみに山田隧道については、沼津明治史料館で得た情報により、 小さな謎が生まれました。それについても触れてみようと思います。

沼津市 多比 石丁場隧道群4 へ続く。


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